どんな本?
- ナショナリズムとは?4つの著作に対して、それぞれ4名の方がその紹介を自論も交えておこなっている。
ピックアップメモ
- 大澤真幸「ナショナリズムの成り立ちと構造」(アンダーソン『想像の共同体』)
- 直接の関係性がなく、一生会わない関係性でも、想像の中でのみの強い同胞意識が働く。その共同体のために死んでも構わないとさえ思う人がいる。
- 国民(ネーション)の三つの特徴
- 国民は、限られたものとして想像される。つまり、人類全体とは一致せず、境界を持ち、その向こう側には対等な別の国民がいる。
- 世界宗教の共同体、例えばキリスト教の例でいうと、本来はすべての人がキリスト教徒になるべきという信条がある。本来は人類そのものと一致することを夢見ている。
- 国民は一つの共同体として想像される。平等な者たちの間の同胞的な関係として思い描かれるということ。
- 国民は主権的なものとして想像される。
- 以前は主権は上に属していた。しかし、宗教が相対化されるに従って、主権は国民に帰属するようになった。
- ナショナリズムの三つのパラドクス
- 社会文化的概念としてのナショナリティ(国民的貴族)は形式的普遍性をもつのに、それを具体的に見ると、手の施しようがないほど固有性を持つ。
- 例えば東大生と早稲田生とハーバード大生を比べると、個性があって違うだろうが、共通性はある。大学生としての。
- しかし、「日本人」性と「ギリシャ人」性を具体的に見ると、似たところがない。
- 歴史家の客観的な目には国民(ネーション)は近代的減少に見えるのに、ナショナリストの主観的な目にはそれは古い存在と見える。
- ナショナリズムは非常に大きな政治的影響力を持つのに、哲学的には貧困で支離滅裂であり、いかなる偉大な思想家をももたない。
- ネーションは王国ではなく、宗教共同体とも違う。
- ナショナリズムの生まれ方3つ。
- 出版資本主義
- 資本主義的な衝動に基づいて行動している印刷業者と出版社は、ラテン語(宗教共同体の「聖なる言語」)を読む知識人のために出版物を送り出すだけでは満たされず、大衆に向けて俗語で出版物を生産するようになった。
- 実際の口語はあまりに多様で一つずつの広がりは小さいため市場として成り立たない。が、出版物を介して標準化された俗語(「文字」ではなく「声」を反映しているとされた文体が発明された)が「国語」の下地となった。
- 十九世紀、英仏辞書のような二言語辞書が生まれたが、まさにナショナリズム時代にふさわしいものだと言える。
- 植民地化
- 植民地の行政単位で、「我々OO人」という意識、ナショナリズムが育った。
- 極端な例はインドネシア。三千もの島々からなり、いろいろな宗派があり、多様だが、例えばニューギニアの西半分だけがインドネシアとしてのナショナリズムを感じている。
- 植民地のクレオール(植民地で生まれたヨーロッパ人)役人の昇進の軌跡が、ナショナリズムを形成した。
- 植民地で、首都での重要な官職を目指して昇進していく。その過程で出会った、各地から集ってきた別の役人に対して、同じ巡礼をする仲間という同胞意識を持つ。
- もちろんクレオールでなくても、言質で登用された役人も同じ同胞意識の対象となる。
- 公定ナショナリズム
- 前二つとは違い意図的に構築されるナショナリズム。
- 国民という意識を確立したヨーロッパ諸国は、大いに成功する。それを目撃した後発組の諸国の支配者たちは、自分たちの国も「国民」にしようと、意図的な制度改革を実行することになる。
- 明治期、プロシア・ドイツを参考に、日本は天皇を頂点に据えることで国民支配の体制を作っていった。
- なぜ近代社会に置いてナショナリズムが生まれたのか
- 宗教信仰は退潮しても、進行が鎮めてきた苦しみは消えはしなかった。そこで、運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換することが要請された。国民の観念ほどこの目的に適したものはなかったし、いまもない。偶然を宿命に転じること、これがナショナリズムの魔術である。
- 「国民」という共同体の中に「わたし」の居場所が与えられる。大義を持って永続する共同体の一員という理由が与えられる。
- ナショナリズムとは世俗化した宗教と言える。
- 現代日本のナショナリズム
- 加藤典洋『敗戦後論』は、配線以前の「我々の死者」を独特の仕方で取り戻すことを訴えている。
- 戦争で失った「死者」を裏切り謝罪をし痛みを感じることで(ねじれた連続性)、過去と現在を繋げる(死者との間に否定を媒介にして連続性を確立する)。それによりはじめて、将来世代、(「我々の」という限定抜きの)未来の他者との連帯に深い実感を持つことができる。それはナショナリズムを踏み台にしてナショナリズムを克服することを意味する。
- 島田雅彦「ナショナリズム前夜」(マキャベリ『君主論』)
- 君主政、貴族政、民衆政は、それぞれ堕落すると僭主政、寡頭政、衆愚政と姿を変える。
- マキャベリ自身は、この三つの良い政体の特徴を兼ね備えた混合政体を、最適のものとしている。古代ローマの共和制(君主を持たず市民による公共の自治で成立する政体)のように、この三つの組み合わせにアレンジを加えてバランスを取り、それらが補完し合いながら効率よく抑圧無く働くことが、現実的には最も良いだろうと考えていた。
- ただし、現実的には衆愚政治に陥り強権的な君主が生まれてしまうことは避けられないのではないか?というニヒリスティックな認識を出発点として、君主を懐柔する形で(自身が時の政府に登用されたかったのもある)、為政者のためのリアル・ポリティクスを説いた。それが『君主論』
- したがって、『君主論』を額面どおりにとって独裁者やブラック企業の社長のような思想を正当化するように読むのは、マキャベリの皮肉屋当てこすりを読み取れていないと言えるのではないか。
- 中島岳志「個人が国家を「超える」」(橋川文三『昭和維新試論』)
- 吉田松陰による「天皇以外はみな平等である」という国学の人間観が、日本に初めて生まれたナショナリズム。したがって明治維新は「革命」ではなく、「天皇の下の平等」という本来の日本のあり方を取り戻す「維新」に過ぎなかった。(革命なら天皇の首を切らなければならない。)
- 昭和維新は、「なぜ一部の人間ばかりが儲かっているのか。俺たちは平等ではないのか」という叫び。天皇と国民の間に入ってよからぬことを企んでいる「君側の奸」がいるからだ。それを除去して「第二の維新」をやらなくてはならないという発想。
- 日本は昭和維新(五一五事件や二・二六事件などもそれのうち)後、軍国主義とファシズムの時代に本格的に足を踏み入れていくことになる。
- 明治維新からの昭和維新の流れは、高度経済成長期が頭打ちになったあとの日本の現状と似ているとも言えるのではないか。「生きづらさ」の問題から『秋葉原事件』のようなことが置きているが、昭和維新と違い、明確な敵が見えない。何をどうすれば開放されるのか、その構造が全くわからない。それが無差別殺傷という形で表出しているのではないか。
- ヤマザキマリ「選別と排除のメカニズム」(安部公房『方舟さくら丸』)
- 方舟さくら丸のストーリーに沿って、解釈を書いていっている。
感想
- 『想像の共同体』は絶対におさえておく必要がありそう。また大澤真幸氏の解説は非常に読みやすく、考え方にも共感できるので、この方の著作も読んでみたいと感じた。
- 『昭和維新試論』も絶対に読みたい。第二次世界大戦に突入していく時期の人々の心を知ることができそう。『想像の共同体』はマクロ的視点での関心が主だが、『昭和維新試論』はミクロ的視点。人間の心の動きに肉薄していそうで自分好みっぽい
- むかし安部公房の『箱男』を読んだときには、特に面白さも感じず、ピンとこなかった。今回このような形で前提知識を得たので、『方舟さくら丸』を楽しめるか読んでみたい。また、『箱男』も今読んだら楽しめるかもしれないから、再読したい。
- いろんな角度からナショナリズムについて述べられており、どれも興味深かったため、次に読みたい本が増えて良かった。