学びの糸を紡ぐ

自分なりになにかを身に着けていく過程をまとめたり、記録しておきたい心情を残したり。

真木悠介『気流の鳴る音』を読んだ

はじめに(ここに何を書いたか)

本ブログの「XXXX『XXXX』を読んだ」というタイトルを持つ文章は、基本的に自分のために書かれている。誰かにその本を紹介するために書いているわけではないし、批評するために書いているわけでもない。

「そのときなぜその本を読みたいと思ったのか」「実際に読んで何を感じたか。自分の何が変わったか」をまとめることを通じて、そのときの自分の思想の断面をスナップショットとして残す。
断面のとり方は、(記事内の from where と to where という2つの項目により)空間的な連続性を持つ。ブログタイトルの「糸を紡ぐ」とはこのようなイメージを表している。
また本を読み記事を書くという行為は当然時間的な連続性のなかで行われるため、結果としてこのブログ自体が自分の歩んできた道を追体験できる装置として機能する。

このような意図のもと、このブログは書かれている。


さて、『気流の鳴る音』は非常に素晴らしい本であった。
ここに何を書こうか・・・と考えた時、この本を読んで感じたことを書く前に、この本を読むに至るまでの自分の流れを先に書いておくことが不可欠のように感じた。
そうしないと、いずれ自分がこの文章を振り返った時に、「とてもいい本だったのに、この文章から感じ取る感覚は当時のあの気持ちを全然表せてないなぁ」となってしまう気がした。

そういうわけで、この記事は『気流の鳴る音』の感想を書く場のように見えて、自分語りが多くを占める文章となっている。
(しかも、むしろ『時間の比較社会学』の方への言及のほうが多いので、なんだこれはという感じがある・・・。)

真木悠介『時間の比較社会学』を読むまで

2021年頃、仕事に関して大いに悩んでいた。その悩みは以下のようなものだった。

  • これまでは、会社が自分に求める方向性と自分が求めるキャリアの方向性が概ね一致していた。したがって、会社が自分に与える仕事と自分が取り組みたい仕事も概ね一致していた。
  • 求められることをこなすと評価され、より大きな裁量と報酬が与えられる。業務自体は面白く、その上大きな裁量と報酬によりモチベーションが高まる。順風満帆な日々。
    • プレイヤーとして、リーダーとして、マネージャーとして成果を出してきた。最初のうちは、やればやるだけ自分自身が成長できる喜びと、会社の人間として大きな問題を解く面白み、という2つのやりがいを両輪として前に進み続けていた。レイヤーが上がるにつれて、前者は人・組織への働きかけを通じてメンバーに対してポジティブな影響を与えることによる喜びへと変化していった。
  • しかし、2021年頃からズレを感じるようになる。会社はより上位レイヤーの仕事を自分に求めるようになっていくが、自分は今いる位置のレイヤーが最も気に入っている、という状況になる。
    • 経営レイヤーのことも自分の射程に含めなければならなくなると、現場から離れていくため、人に対してポジティブな影響を与えることの仕事の比率が減ってくる。問題解決自体は引き続き楽しめるが、それが直接的に人の喜びにつながっているという実感が薄れて苦しくなってきた。
  • すると、会社(や業界)からの期待に応えることをやめたい気持ちとやめたくない気持ちがぶつかるようになる。
    • 上位レイヤーに上がること自体がつらいのではなく、自分なりのバランス感覚を模索しながら進めたいという感覚。期待に応えるためにやっているのではなく、「期待とは無関係に自分はやるべきだと思うしやりたいとも思う。そして会社もそれを望ましく思ってくれている。だからやる」という形ならば、仕事としてやることはやぶさかではない。
  • 会社からの期待に応えるのをやめる、というのは口で言うのは簡単だが、なかなか実践が難しい。それはなぜか?
  • そもそも働く上でのポジティブ要素は主に以下の2つ。
    • 自分がやりたいことをやれていること自体からくる内発的な面白さ
    • 「評価されて(報酬も増えて)嬉しい。」という外発的な面白さ
  • 一方、ネガティブ要素は主に以下の2つ。
    • 生きるためには稼がなければならない。だから働いているのだ、というものの見方。
    • 直接的な意義をあまり感じない。特別自分が関わっているサービス自体に愛着があるわけではない。
  • ポジティブ要素が十分に自らを喜ばせている時、ネガティブ要素は意識上に表出しないものである。逆にポジティブ要素が失われた時、その要素が失われたこと自体への嘆きに留まることなくネガティブ要素が一気に表面に浮かび上がってきて不満となる、ということはよくある。
  • 期待に応えるのをやめるということは、ポジティブ要素のうちの後者(外発的な面白さ)を捨て去る(あるいは減ずる)ことを意味する。
  • では、それを捨て去ったとして、内発的な面白さだけの楽しさだけで働いていくことができるのか?というところが重要となる。できなければただちに、(今までは水面下に潜んでいた)楽しくない要素が自分を苦しめるだろう。実際、ネガティブ要素の2つが既に、当時の自分の心を蝕みつつあった。
  • このまま、この内発的な面白さ"だけ"で前向きに労働を行うのは、難しい。そう感じた。
  • なぜなら、会社での自分の仕事は確かに内発的に面白い部分はあるが、それ以上に面白いこと、面白そうなことがたくさんあり(例えば家族との団らん、趣味)、お金が十分あるならば自分は仕事を続けたがる根拠がないと感じたからである(反例の提示)(ただし、根拠がないだけで、直感は「それでも働くだろう」と言ってくる。それがなぜなのかまだわかっていない)。
  • したがって、仕事に引き続き前向きに取り組んでいくには、今までとは違った捉え方で働くという行為を捉えなければならない。働くことを人生における制約としてではなく喜びとして捉えられなければならない。
    • 仕事は辛いものだと割り切って生きるという道もあり得るが、人生の多くの部分を占める仕事がそのようにみなされると、人生の多くの部分が辛いものとなってしまう。それは絶対に避けねばならない。自分なりの思想により乗り越えたかった。

真木悠介『時間の比較社会学』に出会い、読むまで

そんな中、『時間の比較社会学』と出会った。以下のような経緯である。

  • 前述のネガティブ要素の後者を考えていくうちに、「結局将来への不安に備えなきゃという感覚があるからこそ、安定して稼げる能力を求めるし、社会からの評価を重視する意識を強くしてしまうのである。将来への不安を感じなくて済むようになれば、自分の好きなような選択を恐れずに取れるのではないか。(でもそれは到底無理な話だろう)」といったことを考えることがあった。(似たようなことは今までの人生で幾度となく思い浮かんでいた)
  • たまたま Twitter か何かで、「アフリカのとある部族は未来という概念をもたない。」というようなものを見た。
  • 未来がないならそこに不安もないはずだ!と思い、調べてみたら、『時間の比較社会学』という本があることを知り、読んでみることにした。


読んだ結果、視界が一気にひらけた。世界の見方が変わった。以下のように捉えるようになった。

  • 生きる上では、どれだけ現在を充足的なものにできるかというのが重要になる。そのためには、ただ現在を目的として生き、将来は現在を豊穣化する手段として捉えられるべきである。
  • よって、上記の外発的動機にすがるべきでは決してない。思い切って捨て去ることが本当に自分のためになるだろう。
  • また、生きる上での充足感は、他者や自然との交歓のなかにある。仕事をしていて自分の部署のメンバーと1on1をして心を通わせること、相手に寄り添いともに問題に向き合うこと、そういった今まで充実感を感じていたことこそが、まさに人生において大事な瞬間なのである。
  • 家族以外の人と深い関わりを持つ上で、会社の場というのは大いに便利である。会社の場は自分が他者と交響するかけがえのない場所であるため、仮に死ぬまで働かずに済むくらいのお金があったとしても、この歓びを手放すことはないであろう(上述の直感の正体)
  • さらに、自分は社会の一員であるが、社会を大きな共同体のひとつと捉えれば(ゲマインシャフトゲゼルシャフトは二項対立的な存在ではなく重層的なものであるからこのような解釈は成り立つ)、社会に何かしらを与え、その結果社会に居場所を作ることが出来る、という考えにつながる。持ちつ持たれつのこの共同体において自分がこのような形で(内発的に楽しいと思えることを通じて)何かを与えることが出来るというのは、実に喜ばしいことである。


その結果、仕事に対して前向きに取り組めるようになった。
働く上でネガティブであった要素は、より上位の生き方のレベルの要素に昇華され解体された。

『時間の比較社会学』は、間違いなく自分の人生を大きく変える存在だった。
仕事にとどまらず、生き方に対するスタンスというものがまるっきり変わってしまった。


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他のいくつかの見田宗介名義の本を読むまで

その後、2つほど見田宗介さんの見田宗介名義の本を読んだ。
longtime1116.hatenablog.com
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真木悠介でなく見田宗介名義なのもあり、「社会学」な切り口で書かれている側面が色濃く、見田宗介の思想家的な側面は控えめだったように思う。
ふむふむ、と興味深く読んだ。
(といはえ、見田節のようなものはしっかり感じられた。)


『気流の鳴る音』を読んで

とにかく素晴らしい本だった。
『時間の比較社会学』を読んだ時、見田宗介さんからとても大切なメッセージを受け取った気がした。そして大いに救われた。
しかし、「これは本当に見田宗介さんが伝えたかったことなのだろうか?自分が勝手に解釈して勝手に感動しているだけなのかもしれない。」という気持ちが残っていた(そうだとしても、自分にとってのこの本の価値は決して失われないのだが)。
しかし、『気流の鳴る音』を読んで、確信した。自分勝手な解釈で勝手に感動していたわけではなく、『時間の比較社会学』を読んだ自分は、見田宗介さんの思想を部分的とはいえ正面から受け止めることができていたのだな、と思えた。
私にとって見田宗介さんの存在は、ちょうどカスタネダにとってのドン・ファンの存在のようだと感じた。


『気流の鳴る音』は、「<近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学>という夢の仕事の、荒い最初のモチーフとコンセプトとを伝えるため」(p231)に書かれた本だという。
なるほど確かにこの本は非常にコンセプチュアルであり、ダイレクトに見田宗介さんの思想そのものがさらけ出されているように思う。


自分は『時間の比較社会学』を入り口としてこの本に出会ったからこそ非常に大きな歓びを感じることができたが、もしも最初にこの本を読んでいたらどうなっていたのだろうか・・・この本を受け入れる受容体は存在しただろうか・・・。
この本に、こういう形で出会えて、本当に良かった。


具体的にこの本を読んで何を発見したか、新たに生まれた疑問は何か、等は以下の感想のところに書く。


ピックアップメモ

  • TODO: 没頭するように読むため、メモなど残さず読んだ。二周目を読む時にはメモを残しながら読んで、ここに書こうと思う。

感想

  • 見田宗介さんは実に素晴らしい思想家だなぁという気持ちがある。一方、(もちろんこれが悪いという話では断じてなく)哲学者ではないなとも思う。というのも、「自由」とか「世界」というものの存在を決して疑わず、ある程度の概念は所与として受け入れているから。自分も哲学者ではなく、この世の中をどう生きていくかということに関心があるので、そういう意味でも見田宗介さんが問いを立てる視点に共感を持ちやすい。
  • この本、本当に多くの人に読んでもらいたい。特に、日々の思考の一番外側のフレームがビジネスになっているような人は、どこかで行き詰まった時にこの本を読むと非常に効果的なんじゃないかなと思う。
  • TODO: ピックアップメモを書くときにこっちもちゃんと書く予定。
  • 以下のようなことを書きたい(表現が適切かわからない。ちゃんと読んでちゃんと書きたい)
    • 自分は根をもちかつ翼をもつまでには至っていない。「世界」に根を持っているため。トナールの世界観に根を持ちすぎている。
    • 自分ひとりが達観して根を持ちつつ翼を持てたとしても、そこに一人で到達することはどこか寂しさがあるのではないか。社会全体が変容していったあとなら良いが、今の時代に例えば愛すべき家族とこのような思想を共有できなかったら、孤独感を感じずにはいられないのではないか。

to where?

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  • しばしばマルクスの引用がなされていた。あらゆるところで出てくるし、流石に『資本論』関係の本をそろそろ読む。まずは NHK 100分de名著から読む予定。

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