学びの糸を紡ぐ

自分なりになにかを身に着けていく過程をまとめたり、記録しておきたい心情を残したり。

廣松渉『哲学入門一歩前-モノからコトヘ』を読んだ

どんな本?

  • 「〈実体(モノ)〉的三項図式にかわり、現相世界を網のように織りなす〈関係(コト)〉的存立構制、その結節としてたち顕れる「私」とは、どのようなものか?量子論からイタリアの戯曲まで、多彩なモデルで素描する、現代哲学の真髄!」

感想

  • 哲学自体は特別関心のある学問でないのだが、それはそれとしてこの本は読んでいてなかなか面白かった。
  • 特に共同主観という考え方に触れていると、ひとつの時代/社会で生まれ育ち長い年月を経て醸成されてきた単純な「主観-客観」的世界観を相対化できて良い。
  • 概念形成は抽象という論理的手続によっておこなわれるというのは嘘である!というのは衝撃を受けた。たしかに本当にそのとおりだ。
  • 概ね問題なく読み進められたが、四肢的存立構造のところ(最後の4pくらい)は難しくてよくわからなかった・・・気がする。『世界の共同主観的存在構造』を読んで理解できればなんとかなるだろうけど。

ピックアップメモ

p111
観測(者)ということを離れては物理的対象の相在(かくある)規定がもはや成立しないという事情は量子力学になるといよいよ明確になるのだが、相対性理論においても(量子力学での「観測問題」とは次元を異にするにせよ)ボーアの謂う「共演」という事態は紛れようがない。
留目すべきことには、ここでは単なる個別的主観と客観との認識関係ではなく(観測系Sと観測系S'との両方で、現相的には相違しても、「変換に対して不変」[同一]になるような定式ということからわかるように)間主観的=共同主観的な協働において物理的実在規定が成立する構制になっているのである。

ここで初めて共同主観という表現が出てくる。

p122
論者たちは、概念形成は抽象という論理的手続によっておこなわれると称し、第一段の作業行程として、外延群の集拾を云々する。が、実態においてはサンプルの集拾しかおこなわれないのであって、しかもそのさい、選別・集拾の基準として"概念態"を事前に所持している。そして、自覚的概念形成と称される手段はたかだかこの既知の"概念態"の陶冶(みがきあげ)にすぎないのだが、当の"概念態"たるや、今から形成されるという触れ込みの概念が実質上は既知という論件先取の事態になってしまっている!

抽象という論理手続きによって概念が形成されるという常識を一掃する。
そのうえで、以下のように結論づける。

p159
駄目押をするまでもなく、イデアールな存在性格(超時間的・超空間的・普遍的な存在性格、つまり、不易的・遍在的・関数的な存在性格)を有つ或るもの、そのようなものとして思念される"本質""普遍者"なるもの、それは<意味的所識>なるものを自存する対象性であるかのうように物象化して錯認する機制に負うものである。類的本質とか種的本質とかいった「普遍」としての(個別とは別途の)ものが自存するという想念は、斯かる物象化的錯認にほかならないのである。

本質とは、錯認に他ならないのである。

p160
本質的普遍=普遍的本質なるものがいかなる錯認の所産であるかを叙べた以上での説明が、基本的には、そのまま、実体的個体=個体的実体なるものが錯認的に自存視される機制の説明としても妥当する。

本質の実体としての個体、という認識も錯認に他ならない。

p162
例えば、われわれの文化圏での見地からすれば祖父と瓜二つに似ている孫(つまり、実体的には別個体)とされている者が、多くの未開文化圏においては祖父の生まれ変わり(つまり、実体的に同一個体)だとみなされる。逆に亦(また)、われわれの文化圏では、昨日の太陽と今日の太陽とは同一個体(実体的に同一)とみなしているのに対して、若干の未開文化では、太陽は毎日新生する(昨日の太陽と今日の太陽では、種類上・本質上は同一であるが、実体としては別個体である)とみなされている。
この例からも判るように、所識的同一者とされている或るものが、それ自身としては本質的同一者にすぎないのか、実体的同一者であるのか、これの判別は相対的である。
・・・われわれとしては、こうして、本質的普遍=普遍的本質という相での「もの」がそうであったのと同様、いわゆる個別としての物、そこにおける「実体的個体=個体的実体」なる「もの」に関しても、それが「所与-所識」成態の所識的契機を物象化する錯認することにもとづいて独立自存の自己同一的な或るものとみなされているにすぎないこと、このことを定めるに及んだ。

本質や実体というものは客観的に定まるわけではなく、文化圏ごとの共同主観によって相対的に定められる!

p196
「御意にまかす」

『ピランデルロ名作集』に入っているらしい。
これはぜひ読んでみたい!!!
以下ざっくりとした内容。
ポンザ氏には妻と姑(フロオラ夫人)がいて、二人が全く食い違う発言をしている。
ポンザ氏は、フロオラ夫人は先妻(リナ)の母親であって、妻とは実の母娘ではないという。
フロオラ夫人は、ポンザ氏の愛情が激しすぎるので、リナを引き離したところ、気が違ってしまった。その後リナと再開しても自分の妻とは認めようとしないので、再婚ということにしてもう一度一緒に暮らさせることにした、という。
周囲の人はどっちの言い分が正しいか突き止めようとし、ポンザ夫人に尋ねた。すると、「私はたしかにフロオラ夫人の娘」であり「ポンザの二度目の妻にも相違」ないという。「私にとりましては、私は皆様方が<私のことを誰々何々と>お見做しになるその通りのものでございますよ。」
ポンザ夫人が過去に自己喪失の状態に少なくとも一旦は陥ったことはあるようだ。

p198
彼女が自立的な個人であるのはもっぱら肉体的にだけであって、彼女の実存的な現実性からいえば、彼女は二人の他の人格たちに対して実存している。

p211
人は「所与」を単なるそれ以上・以外の或るものたる<意味的所識>として覚知したり述定したりするが、その所識的<意味>は、他人たちとの各種コミュニケイションを通じて変容・規制を被る。あまつさえ、それは、各種の文化的制約を免れない。
「所識」は、色の具体的な見え方や音の如実(じっさい)の聞こえ方といった次元にまでわたって、文化被拘束的であり、とどのつまりは他人たちの営なみによって規定的影響を受けている。
・・・
この<意味的所識>の同調化・同型化が成立するのは、人が「誰かとしての私」という相で所識態を対他・対自的に帰属化させる構制に俟(ま)ってのことである。視角を変えて言えば、「世人一般としての私」という相への自己形成と相即的に「所識」が世人一般のそれと同調的・同型的に成って行く。
茲(ここ)に、人が共同主観的に同型的な所識を保有するという態勢と、人が共同主観的に同型的な能識者に成っているという態勢とは、楯の両面ということもできる。
勿論、共同主観的同型性といっても、決して厳密な同型性ではない。また、同型的な共同主観性なるものは、限られた歴史的・社会的・文化的な"共同体"の内部で辛うじて形成されるのであり、厳密には当の"共同体"の内部においてすらそれは決して画一的でない。
だが、或る"共同体"の内部と、別の歴史的・社会的・文化的な"共同体"成員との間とを比較する次元で言うかぎり、単位共同体の内部における共同主観的同型性は相当なものである。

from where?

to where?

  • 廣松渉『世界の共同主観的存在構造』