学びの糸を紡ぐ

自分なりになにかを身に着けていく過程をまとめたり、記録しておきたい心情を残したり。

見田宗介『まなざしの地獄』を読んだ

どんな本?

  • 「日本中を震撼させた連続射殺事件を手がかりに、60~70年代の日本社会の階級構造と、それを支える個人の生の実存的意味を浮き彫りにした名論考」。(「日本中を震撼させた連続射殺事件」は、永山則夫による1968年の連続射殺事件を指す)

感想

  • 当時に比べると今は地方と都市の格差は見かけほどには大きくないかもしれないが、それでも今でも地方から東京にやってくる人はこの本に書かれているようなまなざしを意識してしまう面はあるだろう。
  • 東京や神奈川出身の人が例えば東北出身の人に「方言っていいよね。せっかく方言があるんだから標準語じゃなくて方言しゃべったほうがいいよ!」などと無邪気に声をかけることの残酷さは、都市部で普通に暮らしていると全く自覚できないだろう。
  • 今ではまなざしの地獄から逃れるためにとりあえずインターネット、とりわけSNSに逃げ出しそこに自分の居場所を見出すことができる。そこで健全に自分の居場所を確保できる者は、ある程度満たされることができる(理解されにくい趣味を持つ者同士が集う等)。しかしSNSのような場ですら満たされない者もいる。インターネット上では容易に具体・抽象両方の表相性を偽装することができるため、偽装により己の居場所を作ることは容易である。しかし容易であるがゆえ、それでは真に満たされることはないと悟るまでも早い。あるいは偽装という手段を取らないものは社会からまなざされないことに直接的に苦しむことになる。現実からインターネットの世界への疎外と、さらにそこからの疎外。本当の自分を見つめてくれる他者からのまなざしの不在の地獄。それが彼らの苦しみの元と言えるのではないだろうか。
  • 地方から都市に流入してきた者たちがまなざしの地獄に苦しめられたとしたら、まなざしの不在の地獄に苦しめられているのは、その次の世代からだろう。彼ら(自分含む)は家郷という概念を持たずそもそも「構築すべき道の世界」として捉えているが、それを構築できないものは尽きなく生きる基盤を実感として持つことが出来ず、立ち戻る場所を持たない。「今の社会って生きるのが大変だよね」という表現がしばしばなされるが、立ち返る家郷もなく居場所を自ら作らなければならないという状況から自然と出てくる言葉なのかもしれない。

ピックアップメモ

まなざしの地獄

p14
N・Nよりはもうすこしゆたかな多数の村人たちにとって、こんにちではテレビのブラウン管が、地域と階級の壁にうがたれた小さな覗き穴であり、<別の世界>への魂の通路をなしている。それは彼らの、所属集団から乖離する準拠集団、すなわち<ここより他の地>への視線の方向性をなす。
覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの「逃避」であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。
それはなるほど、「支配の安全弁」であるかもしれないけれども、同時にそれは、みじめな現実を生きるわれわれの心の中に、おしとどめようもなくある否定のエネルギーを蓄積してしまう。

崩壊しつつある共同体を故郷とする地方の人にとって、テレビがそのような装置として機能し得るというのは、都市で生まれ育ったものには想像しにくい。
「なんで行くわけでもないのに六本木のおすすめグルメ情報なんて見てるの?」という無垢で残酷な問いかけ。

p22
「金の卵」としての彼らの階級的対他存在にとって、このような存在ののりこえへの意思、生への無限性への意欲は、たんに当惑させるもの(スキャンダル)であり、不条理な攪乱要因にすぎない。雇用者たちにしてみれば、このような少年たちの「尽きなく存在し」ようとする欲望くらい、不本意で腹立たしいものはない。「こんなにも大切にしてやっているのに、どこまでつけあがる・・・・・・。」道徳教育への要求。「近ごろの若い者はわからん。」

p23
都市に流入する「新鮮な労働力」に付着してくる、このやっかいな夢見る亡霊の処理のためには、安直な大衆消費文化と警察の補導係の他には、かくべつの制度は用意されていない。
かくして厖大な実存的失業者の群れが、ゆきばを失って大都市の虚空をさまよい、どこへともなく消え去ってゆく盛り場の人の流れや、安アパートの一室のさびしいテレビ視聴者となる。

p32
N・Nの戸籍体験は、多くの都市への流入者たちが、言葉その他で体験したおぼえのある、さまざまな否定的アイデンティティの体験、つまり自分が、まさにその価値基準に同化しようとしているその当の集団から、自己の存在のうちに刻印付けられている家郷を、否定的なものとして決定づけられるという体験の、一つの極限のケースとみなしうる。
彼らはいまや家郷から、そして都市から、二重にしめ出された人間として、境界人(マージナル・マン)というよりはむしろ、二つの社会の裂け目に生きることを強いられる。

家郷喪失者(ハイマートロス)

p38
「戸籍」そのものは、無力な一片の物体にすぎない。この無力な紙片に、一人の人間の生の全体を狂わせるほどの巨大な力をもたせるものは何か?
それはこの過去生にひとつの意味を与えて(網走=犯罪者の子弟=悪、等々)、彼をあざけり、彼にその都度の就職の機会を閉ざし、彼の未来を限定する他者たちの実践である。
・・・
人の現在と未来とを呪縛するのは、この過去を本人の「現在」として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり、他者たちの実践である。
「戸籍」がN・Nを絶望に追いやったのではない。「戸籍」をもって差別する社会の構造がN・Nを絶望に追いやったのだ。

p40
都市のまなざしとは何か?それは・・・ある表相性において、ひとりの人間の総体を規定し、予料するまなざしである。N・Nは「顔面のキズ」として、あるいは網走出身者として対他存在する。
具体的な表相性とは一般に、服装、容姿、持ち物などであり、抽象的な表相性とは一般に、出生、学歴、肩書などである。

p45
都市が人間を表相によって差別する以上、彼もまた次第に表相によって勝負する。一方は具現化された表相性の演技。他方は抽象化された表相性の演技。おしゃれと肩書。まなざしの地獄を逆手にとったのりこえの試み。

SNS等で散見される。

p49
N・Nの麦めしにたいする嫌悪は、以前にもふれた。東京拘置所に入ってからも、麦めしが出ると少しだけ食べて、便器に流している。
「好き嫌いは後にしていやなんだ麦めしは 貧ぼうくさくていやだ」

p50
麦めしが、その物的な定在それ自体において「貧乏くさい」わけではない。金持ちが健康上の理由で、あるいは思想上の理由で、あるいはその他気まぐれな趣味で麦めしを食うとき、麦めしは貧乏くさくない。またその社会の全体が麦めしを常食するとき、麦めしは貧乏くさくない。麦めしが貧乏くさいのは、それが麦めしを食う人間の、ある状況の総体性を記号化(シグニファイ)しているからだ。

自分の近くにも、まさに麦めしが苦手な人がいた。
自分の周囲の人間ですら、親世代でまさにこういう体験をしている人は多い(「親の実家は地方のXXです」)わけで、全く遠い世界の話ではない。

p50
N・Nにおいて切実に実感されていた「貧乏」の本質は差別、すなわち階級構造そのものであるということだ。なるほどN・Nにとっての貧しさの最初の体験は、網走や板柳での生理的な飢えであっただろう。
しかし都会に流入してのちは、生理的な飢えそのものは、「金の卵」たる若年労働者としては、一応は満たされていたはずである。ここで絶対に満たされなかったものは、社会的差別、自己の社会的アイデンティティの否定性、あるいは存在の飢えとでもいうべきものであった。
そして郷里での「飢え」の体験に関してでさえ、母が貧しさに耐えかねて八人の子供たちのうち、N・Nをふくめて四人を一冬置き去りにしたということ(ここで四人が生き延びたのは奇蹟的といわれる)、この「みすてられた」体験、一つの関係の体験こそが、N・Nの記憶の中で決定的な因子をなしている。
のちにN・Nは痛恨を込めて次のように書く。「私は肉親というものを考えることは出来ない。なぜにこうなってしまったのかを一言的に表現すると、すべて、すべて、すべて、すべては、貧困生活からだと断言できる。貧困から無知が誕まれる。そして人間関係というものも破壊される。」

p52
貧困とはたんに生活の物質的な水準の問題ではない。それはそれぞれの具体的な社会の中で、人びとの誇りを挫き未来を解体し、「考える精神」を奪い、生活のスタイルのすみずみを「貧乏くさく」刻印し、人と人との関係を解体し去り、感情を涸渇せしめて、人の存在そのものを一つの欠如として指定する、そのようなある情況の総体性である。

生まれついて恵まれている自分のような人間には到底想像もつかないような壮絶な世界が、貧困のなかにはあるのだ・・・。

p56
金持ちの息子は、(たとえば庄司薫の小説のあの鼻もちならない主人公たちは)セーターにジャンパーなどを無造作にひっかけて銀座を歩く。N・Nは「パリッとした背広」にネクタイをしめる。――貧乏くさいのはN・Nの方だ!
このようにそののりこえのあらゆる試みにつきまとい、とりもちのようにその存在のうちにつれもどす不可視の鉄条網として、階級・階層の構造は実存している。

かといって当然、N・Nがセーターにジャンパーをひっかけて歩けばいいという話には全くならないというのが悲しいところだ・・・。

新しい望郷の歌

p95
われわれにとって<家郷>はもはや否応なしに、人間がそこから出発しいつでもそこに還ることのできる所与の自然としてでなく、構築すべき道の世界としてしか存在することがない。このような日本人の心情の全構造の「コペルニクス的」転回の過程として六○年代はあった。

解説

p101
統計的事実の実存的意味

p104
統計的な手法を用いた数量調査は、(広義の)平均値こそが、全体を代表するに適しているという考えに基づいている。それに対して、実は、極限値によって全体を代表させることもできるのだ。極限値とは、各個人の心性や行動の内に萌芽的に見られる動的な傾向性のベクトルが収斂する先である。

p108
それに対して、少年Aはどうだったのか。
N・Nにとっては、まなざしが地獄であった。Aにとっては、逆に、まなざしの不在が地獄である。Aと同じことは、秋葉原事件のKにも言える。
・・・
Kは、犯行直前まで、携帯電話を用いて、インターネットの掲示板に、異様な量の書き込みをしていた。・・・彼は、自分の書き込みにたいするインターネットからの反応を待っていたのだ。つまり、Kは、インターネットの中のまなざしに、自分がしっかりと捉えられようと、必死で呼びかけていたのである。しかし、ネットからの応答はなかった。Kは、「透明な存在」を脱することはできなかったのだ。だから、彼は、秋葉原に向かったのだろう。世界の中心で派手な犯罪を起こせば、「まなざし」もまた無視することはできないはずだからだ。実際、犯罪において、彼は、都市のまなざしに、――例えば周囲の人々の携帯電話のカメラに――しっかりと捉えられた。

to where?