学びの糸を紡ぐ

自分なりになにかを身に着けていく過程をまとめたり、記録しておきたい心情を残したり。

石井洋二郎『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』を読んだ

どんな本?

感想

  • 講義形式で非常に読みやすかった。
  • この社会を生きていると階級闘争に必然的に参加してしまうということは受け止めた上で、いかにしてそこから自由になるかということを考えて生きていかなければならないと感じる。というのも他者との差異の間に価値を見出すスタンスは、他人軸の幸せの獲得には繋がる(客観的に見て幸せっぽく見える人間にはなれる)が、自分のための幸せの方向性を定め涵養していくことにはつながらないからだ。
    • ただし、自由になるというのはもちろん階級闘争に参加しないという話ではない(そんなことは不可能である)。そうではなく、自分が何らかの意見を持つ際に自身のどのようなハビトゥスが影響を与えてそのような意見を持つに至ったのかに思いを巡らせること、それにより自分が重視する価値基準から他者との差異の間に見出された価値を分離し、自分軸の価値を取り出して育てていくこと、ではないか。

ピックアップメモ

第1講

  • p38 重要な用語なので引用して残しておく。

ブルデューは三つの趣味世界を区別します。
第一は「正当的趣味」で、・・・
第二は「中間的趣味」で、・・・
第三は「大衆的趣味」で、・・・
そしてブルデューは、こうした分類がおよそ学歴水準と社会階級に対応していると述べています。

前者は「経済資本のように数字的に定量化することはできないが、金銭・財力と同じように、社会生活において一種の資本として機能することができる種々の文化的要素」のことであり、知識や教養のように「身体化された文化資本」、書籍や絵画のように「客体化された文化資本」、学歴や資格のように「制度化された文化資本」の三種類に分類できます。
また後者は私たちが多かれ少なかれ毎日反復している習慣的な行動のことで、基本的には「物を食べたり人と喋ったりといった、ほとんど生活のあらゆる領域にまたがる日常的な行為の数々」を指します

「身体化された文化資本」と「客体化された文化資本」は、家庭環境と学校教育により文化資本が十分形成されていれば、主観的にも客観的にもそれが獲得されていると思える。しかし、「制度化された文化資本」のとりわけ学歴だけは、人生のしかるべきタイミングで獲得できないと、本人が満たされる形で獲得することができないことが多いように思う。
飛躍するが、学歴に対して特に強いコンプレックスを持つ「学歴コンプ」のような人の中には、ひょっとしたら、前者二つは獲得しているような自認がありながらも自らの文化資本を制度化できなかった人がいるのかもしれない。

  • p42 文化資本を形成する家庭環境と学校教育

文化資本が家庭環境と学校教育の両方によって形成されるものであることを念頭に置いておかなければなりません。
両親の学歴が比較的高く、経済的にも恵まれた家庭に生まれた子供の中には、幼少時から本に囲まれて育ち、ピアノやヴァイオリンを習い、時には美術館などにも連れて行かれ、自然な形で教養や情操を培って「相続文化資本」を身体化していくケースがしばしば見られます。
・・・
では、学校という場は、彼らにとってどのような機能を果たすのでしょうか。教育は建前上、家庭環境による文化資本の差をとりあえず括弧に入れて、誰にたいしても平等に分け与えられる物ですから、基本的にはスタートラインにおける差を縮める方向に作用するものと考えられます。
・・・
ただし学校は、相続文化資本を学歴資本に転換する装置でもあるので、それがもたらす効果には逆の面もあるということを見逃してはなりません。有利な環境に育った子供が能力を発揮できずにさらに不利になることもあります(というより、むしろこうした側面のほうが大きいと言ってもいいかもしれません)。つまり教育は、家庭環境による文化資本の差をむしろ拡大する方向に作用する可能性を秘めているのです。
・・・「身分振り分け効果」のひとつであるとしています。

文化資本を多く持つ家庭の子供は、相続文化資本を多く持つ上に、相続文化資本を学歴資本に転換する転換率の高い装置となる学校を選ぶことができるため、二重に差がつくだろう。
自分が大学受験をした時期、周囲の人間が次々と私立大学を受験し合格していくなか、「この学校でこんなに勉強をしていなかった(成績の低かった)ような彼らでも、世間ではそこそこ優秀とされる大学に入れてしまうのか」という驚きを感じた。
ここに、「身分振り分け」の装置としてのその学校の強さが表れているように思う。
同じ人間が同じような意識で過ごした場合、地元の公立中学・高校を経ていたら、このような学歴資本への転換は難しかったのではないか。

  • p44

親から相続したものであれ自らの努力によって獲得したものであれ、実際は一定の「身体化」された文化資本の所有者であるにもかかわらず、それを学校の免状という形で「制度化」できなかったケースを指していることがわかります。俗な言い方をすれば、「○○」大学卒という肩書きを所有している者は、わざわざ何かをしてみせなくてもそれだけで「ああ、知識も教養もある人間だな」と思われるのにたいし、そうした学歴をもたない人間は、なんらかのパフォーマンスによって、自分が所有している文化資本の価値をいちいち証明してみせなければならないということです。
そもそも貴族というのは、具体的に何かができるから貴族なのではなく、ただ貴族であるから貴族である、そして他人からも貴族であると認められる、そうした存在です。だから彼らは、「ただ現に自分があるところのものでありさえすればよい」のであり、何のパフォーマンスも要求されることはありません。これをブルデューは「本質主義」という言葉で呼んでいます。「貴族階級の人間とはすなわち本質主義者なのだ」

そういえば、かつてこういう疑問を持ったことがあった。すなわち、「なんで都心から離れた場所のアウトレットモールには、こんなにたくさんのブランドものの店があるのだろう?銀座でもないのに誰が求めるのだろう?」。
しかし、今ではこれは容易に理解できる。洗練された都市に生まれ育ったものは、ブランド物を身に纏う必要などない。都市に憧れる地方在住者こそ、「パフォーマンス」としてそれを求めるのである。
ブランド物に価値を見出せない者がそうでない者を笑うとき、そこには残酷な階級の差が隠れていることがあるということだ。
『まなざしの地獄』でN・Nが「「パリッとした背広」にネクタイをしめ」ていたことが思い出される。
longtime1116.hatenablog.com

  • p50

家庭と学校という二つの環境を主要な舞台として涵養されるされる美的性向が、ある人間が文化貴族であることの証左でありうるのは、それが「日常的な差し迫った必要を和らげ、実際的な目的を括弧にいれる全般化した能力」であり、「実際的な機能をもたない慣習行動へむかう恒常的な傾向・適性」であるからにほかなりません。

「実際的な目的を括弧にいれる」ことが美的性向を涵養することに繋がる、というのは受験勉強においても仕事においても納得感がある。
例えば受験勉強という言葉を聞いた時に、それを学問と結びつけて「勉強は面白い」と言う人と、受験と結びつけて「勉強はつまらない」と言う人がいる。同じように受験勉強をしていても、人によって「実際的な目的を括弧にいれ」る度合いが異なるが故に、勉強に対する印象が異なるのは興味深い。
仕事においても、「給与をもらって生きるために働いている」という姿勢をとるか、「社会に良い影響を与えるために働いている(報酬はその価値を証明するものにすぎない)」という姿勢をとるかで、全く変わってくる。後者は、生きるために働くという「実際的な目的を括弧に入れる」ことで、美的性向の射程圏内に労働を位置付けることができているように思う。

  • p53

もちろん、ある分野の趣味が一致するからといって、別の分野の趣味がかならずしも一致するわけではありません。
・・・
ただ、逆に「嫌いなもの」を尋ねてみることで一定の共通性があぶり出されてくるという経験は、誰しも覚えがあるのではないでしょうか。
・・・
「趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪 dégoûts なのだ」

嫌いな Youtuber を思い浮かべた。

  • p56

こうして生まれながらに一定の身分資本を受け継いだ者は、学歴上は同等であっても、すなわち制度化された文化資本は同等であっても、身体化された文化資本の点ではスタートラインから有利な位置に立っているので、文化貴族でない家庭の出身ゆえにそうした資本を所有していない者がしばしば強いられる努力をしなくても済み、ある種のゆとりを持って学校生活や社会生活を送ることができるわけです。

よく似たような話は耳にするが、制度化された文化資本以外の文化資本の差によるものであることが簡潔に示されている。

第2講

  • p73 実体論と関係論の話

実体論的思考様式というのは、いわゆる常識の嗜好様式であり、また人種差別主義の思考様式であって、ある時点におけるある社会のなかの、ある種の個人や集団に特有の活動や選好を、一種の本質のうちにしるしづけられた実体的な特性として扱う傾向があるものなので、単なる社会どうしの比較ではなく、同じ社会のなかで連続する異なる時代どうしの比較を行う場合でさえ、やはり同じ過ちへと人を導いてしまいます。

これは原書の引用。とても重要なことを言っている。ここに書かれたことに留意せずに『ディスタンクシオン』を読むと、おそらく階級差別主義者はより階級差別主義者的になってしまうだろう。
ここでは何を言っているのか?実体論と関係論というものには明るくないので、自分なりの解釈を具体例を上げながら試みる。
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  • 前半部分:「ある時点におけるある社会のなかの、ある種の個人や集団に特有の活動や選好を、一種の本質のうちにしるしづけられた実体的な特性として扱う傾向があるものなので、」
    • ある集団の何らかの傾向が、他の集団と比べて強かったとする。例えば、太っている人の集団は、痩せている人の集団よりも、一日に摂取するカロリーが多い傾向があるとする。
    • この時、前者の集団の全員が後者の集団の全員より常に摂取カロリーが多いというわけではない。体質的に太りやすい人は、そうでない人よりも摂取カロリーが少なくても太ってしまうかもしれない。また一時的に役作りのために摂取カロリーを増やして太っている人かもしれない。
    • それゆえ、太っているからといって直ちに常に摂取カロリーが常に多い人だと断定するべきではない。
    • しかし人々は、摂取カロリーが多いことが太っている人の集団に属する実体(すなわち個々人)の本質だと考えてしまう傾向にある。すなわち、「摂取カロリーが多いという本質を持っているからこそ太ってしまい、その結果彼らは太っている人の集団に属するようになったのだ」と思ってしまう。
    • この考え方の問題点は、本質であると考えるが故に、その集団に属する人間全員がその性質を有しており、属していない人は有していないと考えてしまう点にある。それ故、例えば太っている集団は自制心がない人間で、そうでない人間は自制心がある人間だというふうに、前者を貶めてしまったりする。
    • 本当は集団と集団の間に明確な線引きができるわけではないのに、虚構の本質を有すものと有さないもので区切り、レッテルを張る。これは差別そのものである。
  • 後半部分:「単なる社会どうしの比較ではなく、同じ社会のなかで連続する異なる時代どうしの比較を行う場合でさえ、やはり同じ過ちへと人を導いてしまいます。」
    • 例えば、日本における昭和のサラリーマンと令和のサラリーマンの勤労に対するスタンスの差異の傾向を語る際に、世代ごとに何か本質があるかのように定め、現実に存在する人間にそれを適用して褒めたり貶めたりしてしまう。
    • 集団と集団を比較しそこに傾向上の差異が見られるというときに、その差異を実体全てに共通する特性のように考えてしまうと、必ずこの問題が発生してしまう。集団の傾向の差異を集団の本質のように捉えてはならないし、それを個人にフィードバックして語ってはならない。

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  • p75

要するに、社会空間において重要なのはあくまでも、ある社会的位置と他の社会的位置との差異であり、ある生活様式と他の生活様式との差異なのであって、そうした横の関係性によって構成される差異の体系を視野に入れずに、ある社会的位置とある生活様式をじかに結びつけ、あたかもそれぞれ実体的な特性をそなえた両者が相互の「本質」を決定しているかのような味方をしてしまうことは避けなければならない、というのがブルデューの警告の意味なのではないでしょうか。

ここも大切なことを言っている。これはp73の応用編。
ある集団と別の集団を比較したときに、2つの傾向が見られたとする。1つ目の傾向からその集団の個人の本質を見出し、2つ目の傾向からもその集団の個人の本質を見出してしまうことで、その集団に属する人全員が、その2つの傾向を持つと誤解してしまう。
しかし、それは前述の通り誤った見方である。
具体例を考えてみよう。
集団Aは、全員上場企業の役員で、男性が3割・女性が7割から成る。集団Bは、全員アルバイトで生計を立てており、男性7割、女性3割の集団だとする。
それぞれの集団に、性別を記入してもらった上で、クラシック音楽が好きかどうかのアンケートをとるとする。またアンケート結果が、集団Aの40%がクラシック音楽好きで、集団Bの2%がクラシック音楽好きという結果になったとする。
すると、以下のような傾向が見られると言えるだろう。
傾向1:集団Aは女性が多く、集団Bは男性が多い。
傾向2:集団Aは集団Bよりもクラシック音楽が好き
ここから誤った本質を見出して繋げてしまうと、「女性は男性よりもクラシック音楽が好き」という結論を導き出してしまう。

第3講

  • p90

ハビトゥスとは身体化された必然、つまり道理にかなった慣習行動を生成し、またこうして生みだされた慣習行動に意味を与えることのできる知覚を生成する性向へと転換された必然であって、それゆえ全般的にでありかつ他の分野に転移可能な性向として、現に所有されている諸特性の習得条件に固有の必然性を、直接に獲得されてきたものの範囲を越えて、体系的かつ普遍的に適用することができるようにするものである。

原書からの引用箇所の引用。
具体的には、例えば食事作法のマナーを身につけた者は、そのマナーの意味を理解できる知覚を有しており、それゆえ例えばパーティに適切な衣服を着て参加することも自然とできるということ。

  • p95

単なる習慣とハビトゥスとの違いは、前者が歴史性(時間性)を捨象しいた本質主義的・実体論的思考様式に属しており、すでに個人の身体に沈澱し固着した諸特性を既存のシステム(構造化された構造)として惰性的に反復し再生産するだけのものであるのにたいし、後者は歴史性(時間性)を組み込んだ生成論的・発生論的思考様式に属しており、常に既存のシステムを更新して新たな慣習行動を生産する「強力な生成母胎」(構造化する構造)としてとらえられる点にある、ということです。

「歴史性(時間性)を組み込んだ生成論的・発生論的思考様式に属しており、常に既存のシステムを更新して」とあるように、ハビトゥスは時間の流れの中で(つまり経験をもとにして)それ自体が更新されるということ。そして、更新されたハビトゥスを母体として慣習行動が生産されていく。
「生まれと育ちで全てが決まる」のような主張を決して肯定していない点は注意しておく必要があるだろう。

  • p98

ここでブルデューが導入するのは、「贅沢趣味(または自由趣味)」と「必要趣味」の対立です。「前者は必要性への距離の大きさによって決まる物質的生活条件、すなわち資本を所有していることで保障される自由さ、あるいは時に言われるように安楽さによって定義される物質的生活条件から生まれた人に固有のもの」であり、後者は「与えられた生活条件に自らを適合させてゆくものであり、まさにその事実において、自らがいかなる必要性から生まれてきたものであるかを物語っている」ものです。

この後、後者の例としてジャガイモやインゲン豆を日常的に食べざるを得なかった単純労働者が、結果としてそれらを本当に好きになるということがあり得る、というものが挙げられている。
自分にとってプログラミングというのはまさしく必要趣味と言えるだろう。

  • p106

男性の服装における階級性は「上級管理職の専有物である三つ揃のスーツと、農業従事者および生産労働者に特有のブルーの作業服」という二項対立を象徴的な軸として社会空間の構造を再現することになるでしょう。
この点に関して面白いのは、フランスでも日本でも、男性の大学教員の中にはことさらノーネクタイのラフな格好でキャンパスに来る人が少なくないという事実です。これはきちんとした組織の一員であることを示す「スーツにネクタイ」という服装を拒否することによって、自分は体制側の価値体型に組み込まれるような人間ではないとアピールするための外見戦略であると思われるのですが、さりとて彼らも決して、工事現場に似つかわしい「ブルーの作業服」で大学に来るわけではありません。豊かな文化資本によって社会空間の上層部に位置している彼らは、精神的には反体制的な志向をもちながらも、実際には社会的下降移動を実行することができないという倫理的なジレンマを抱えているために、せめて社会空間の右側(つまり上級管理職が位置する経済資本優位の領域)にはできるだけ接近したくないという意思表示を、「ラフではあるが労働着ではない」服装というアンビヴァレントな形で表現しているのでしょう。

面白い。自分も、大学教員ではないが社会空間のなるべく左側に位置したいという欲求があるので、スーツを着ることを好まない。高級なスーツや時計を身にまといエリートビジネスパーソンのように振る舞う生活は強く避けたい。

第4講

  • p128, p130

まず確認しておかなければならないのは、ここで進行しているのがかつてのような「階級闘争」ではなく、「象徴闘争」であるということです。つまり問題になっているのは、プロレタリアートブルジョワジーの独占する政治的覇権を奪取し、社会空間の構造そのものを転覆することを目指して繰り広げる現実的な闘争ではなく、さまざまな社会的位置にある人々が自分に親しい趣味や慣習行動を正統的なものとして定義し、これを支配的価値観として押しつけることを目指した、象徴レベルにおける闘争なのです。

「いくら学歴が高くても収入が高くなければ意味がない」とか、「いくら資産家でも無教養な人間には価値がない」とか、「いくら能力があっても人脈がなければ地位は得られない」といった言い方は、それぞれの価値観に沿った資本形態を優先的な支配原理として主張する象徴闘争の戦略的な言説に他ならないわけです。

しばしば「センスが良い」という褒め言葉を目にするが、だいたいこれの意味するところは自分の好みに近いという意味であり、象徴闘争の一つであると言える。

第5講

  • p144

オペラやコンサートでも事情は同じで、たとえばパリのオペラ座などでは、華やかなドレスや上等なスーツを身にまとった人たちがロビーを闊歩し、幕間にはシャンペンやワイン片手に談笑するといった光景が見られ、劇場はさながらブルジョワの社交場といった趣を呈します。彼らにとって劇場とは、ただ芝居を観たり音楽を聴いたりするだけの場所ではなく、あくまで自分たちが上流社会の一員であることを主張し、みずからの貴族性を誇示するための舞台装置なのです。
これにたいして、インテリ趣味の持主である教授や芸術家たちの行動様式はかなり異なります。
・・・
つまり知識人層にとっては、芸術作品に触れてそれについて語ったり文章を書いたりすることがしばしば仕事の一部をなしているので、劇場に出かけること(あるいは美術館や映画館に足を運ぶこと)自体はいわば日常の営みであって、その行為が非日常的な(ハレの)華やかさを帯びることはまずないというわけです。・・・「劇場に行くのは芝居を見るためであって、自分を見せびらかすためではない」という言葉は、彼らのこうした行動原理を端的に表しています。

同じような文化的慣習行動をしているように見えても、その行動原理は階級によって全く異なる良い例。

第6講

  • p168

右の引用箇所では通俗的で娯楽性の強いオペレッタのようなジャンルを(オペラのように)高尚な芸術とみなしたり、大衆受けする知識の普及にすぎないものを純粋に学問的な言説と思い込んだりするケースが例として挙げられているわけですが、こうした「同定の錯誤」あるいは「誤れる承認」は、そもそも対象を適切に評価するための原理や基準が不在であるところに起因するので、本人としては自分の判断に確実な根拠がないために不安を覚えずにはいられません。
しかしその反面、彼らは支配的文化にたいする「無差別の畏敬」を抱いているので、自分の判断が客観的に見れば異端的であるにもかかわらず、主観の中ではこれを正統的なものとして確信することになります。そしてその結果、自分は同じ階層の他の人々からは卓越化されているのだという満足感を覚え、目指すべき上位の文化に参入できているのだという錯覚に陥るのです。
このように「中間文化は正統的文化へのさまざまな参照を含んでおり、それらは正統的文化を中間文化と混同させる方向に作用するとともにそうした混同を正当化する」のですが、実際は「誤れる承認」にすぎないこの種の混同は、中間階級の人々から見れば本来は手の届かないところにあるはずのブルジョワ的正統性を手軽に入手できるものに思わせてくれるものなので、そうした狙いで作られる文化的生産物は少なくありません。ブルデューが例として挙げているのは「演劇・文学の古典作品の「脚色」による映画化、クラシック音楽の「大衆的」な「アレンジ」または大衆歌曲のクラシック風「管弦楽用編曲」、あるいはボーイスカウトのコーラスや聖歌隊を思わせるようなスタイルでのクラシック作品の合唱演奏」などですが、これらがいずれも、高尚なものと通俗的なもの、貴族的なものと大衆的なもの、古典的なものと現代的なものの混淆を意図していることは明らかでしょう。

インテリ層に憧れて断定口調で語るYoutuberによる講義動画を視聴している人々の姿が思い浮かぶ。このような情報源を使って教養が身につくと本当に考えてしまうし、それ以外の方法がわからないのだろう。

  • p180

実働プチブルは支配階級への到達をもくろむ恒常的な上昇志向ゆえに、自分自身(および自分の家族)に厳しい規律を課す「禁欲的厳格主義」によって特徴づけられています。上を目指すのであれば、現在の欲望に安易に身をゆだねることは慎まなければならない、一生懸命勉強すれば必ず努力は報われるのだから、目先の快楽にふけるなど言語道断だ、というわけで、「教育の努力による段階的進歩を約束されている彼らは、教養と知性の光明にたいする信仰に基礎づけられた進歩主義的世界観へ、そして各人をその学業成績に応じて処遇することをめざす穏健な改良主義へと自然に向かっていく」のです。

上昇プチブルの全生活は、たいていの場合代理によってしか、つまりよく言われるように彼らが「自分の野心を託す」子供たちを介してしか生きることのできない未来について、あらかじめたてられた予想である。彼らが「自分の息子のために夢見る」未来、ほとんど絶望的な気持ちでその中に身を投げ出している未来は、いわば自分の過去を想像の中で前方へと投影したもので、これが彼らの現在を食い尽くしてゆく。自分が渇望している財を手に入れるのに必要な時間が人生の一生を越えてしまうような場合には、どうしても数世代に渡る戦略をたてざるを得ないので、彼らは先延べされた楽しみと延期された現在の人となる。

後者はブルデューの引用の引用。
子供の進路に親が希望を託す例、実際に存在しているのは知っていたが、なるほどこういうことなのか。
実働プチブルは、努力による上昇の喜び(成功体験)を味わうにつれ己の上昇志向の正しさへの確信を深めていき、上記のような上昇プチブル的志向へと着実に進んでいくのだろう。
次の世代に託すのは極端だが、現在を手段化して未来の豊かさを求めるのは多くの現代の労働者にとっては当たり前のように考えられている(何せ受験勉強で何度もそれを行うことになる)ので、多かれ少なかれ我々労働者は似たような価値観を持っているように思う。

  • p185

上流階級出身の新興プチブルは、階級脱落に見舞われたとはいっても、もともと文化にたいして親しみ深い関係をもっているので、再階級化(階級復帰)をもくろむに当たって不可欠の武器、すなわち的確な美的・倫理的判断を下すための「嗅覚」をそなえており、卓越したものと通俗的なものを本能的に嗅ぎ分けることができます。この点で、彼らは無防備な(武器をもたない)実働プチブルとは明確に一線を画していますし、同じ新興プチブルの中でも、「文化的能力も倫理的性向も、そして特に社会関係資本や投資感覚なども備えぬままで」この領域に参入してきた上昇メンバーから区別されるのです。
そしてこのように「武装した上昇志向」を持つ新興プチブル層は、「生きかたに関わるすべて、もっと正確にいえば家庭生活と消費行動、男女間・世代間の関係、家族とその価値観の再生産などに関わるすべてのことがらを争点とする闘争において、かならず前衛の役割を果たすように運命づけられている」ことを確認しておきましょう。というのも、彼らは下降プチブルの抑圧的モラルと対立することはもちろんのこと、実働プチブルの禁欲的モラルとも対立しつつ、「義務としての快楽」という新しいモラルを先導する立場に身を置くことになるからです。

例えば、相続文化資本は十分にあるが学歴(制度化された文化資本)をたまたま獲得できなかったことにより経済資本が十分に得られなかったとする。この者は若い時期には階級を脱落するかもしれないが、引き継いだ知性等の能力を発揮すれば人生の後半では階級を上げられているかもしれないし、そうでなかったとしても次の世代での階級上昇可能性が(そうでない人に比べて相対的に)高いだろう。

第7講

  • p192

つまり庶民階級の人々にとっては、なくても別に困らない装飾性や贅沢さを追求するよりも、なくてはならない機能性や実用性を確保することのほうが重要なのであり、その要請が彼らの経済力に見合った趣味を形作るのです。

例えば質素倹約を重んじるライフスタイルは、一見自分で選び取っているかのように見えるが、経済力に見合った志向性によりそもそも選び取れる選択肢が限定されてしまっている中で選んだ結果なのである。

  • p204

ただし支配するものと支配される者の関係は、決して単純ではありません。というのも、両者は必ずしも明確な形で対立しているわけではないからです。というより、被支配者は所与の社会的位置に自らを適合させようとすることによって、支配の構造そのものを進んで受け入れ、結果的に支配者に加担してしまうことが往々にしてあります。彼らにとって支配的文化とは敵対や打倒の対象ではなく、逆に畏敬や羨望の対象であり、しかも容易には到達することも模倣することもできない対象であるために、結局のところその定義自体を問題にすることはないまま、これを剥奪された状態に甘んじるしかないのです。
・・・
本物の贅沢財が入手不可能であるという状態が第一段階での剥奪、すなわち経済的剥奪であるとすれば、何が贅沢財であるのかを定義する権利そのものを奪われている第二段階の剥奪は、いわば文化的剥奪と言えるでしょう。正統的文化はそれが庶民にとって到達不可能であるから正統的なのではなく(あるいはそれだけではなく)、そもそも彼らには何が正統的であるかを定義する権利がないから正統的なのである・・・

本革の代わりに模造皮革を喜んで買ってしまう例がわかりやすい。

第8講

  • p218

他人の発信したメッセージをリツイートしたり「いいね」ボタンを押したりするという行為は、まさに現代における「発言権の委託」であると言えるでしょう。しかしこうした振舞いは、本来自分に与えられているはずの政治的(さらにはもっと広く社会的)権利をそうとは自覚しないままに放棄し、しかもそうして権利を奪われた状態を自ら認めてしまうこと、すなわちブルデュー言うところの「見過ごされ承認された剥奪」にほかならないのです。

タイムラインがリツイートで埋まっている駆け出しウェブエンジニアを見ると切ない気持ちになる。

総括講義

  • p256

少なくとも言えることは、彼の発言や行動が場合によっては「上からの啓蒙」を思わせる知識人特有の尊大な身振りと誤解されかねない部分があったとしても、その思考や感性のハビトゥスは間違いなく、常に大衆のそばにあることをやめなかったということです。

ブルデューの姿勢に対するこのような表現を最後にこの本が終わっているのが良い。


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  • 100分de名著は流石に簡略化されすぎだろうと思ったので、もうちょっと詳しく知りたくて読むことにした。

longtime1116.hatenablog.com



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