学びの糸を紡ぐ

自分なりになにかを身に着けていく過程をまとめたり、記録しておきたい心情を残したり。

柄谷行人『世界共和国へ: 資本=ネーション=国家を超えて』を読んだ

どんな本?(amazonより引用)

  • 「資本=ネーション=国家」という接合体に覆われた現在の世界からは、それを超えるための理念も想像力も失われてしまった。資本制とネーションと国家の起源をそれぞれ三つの基礎的な交換様式から解明し、その接合体から抜け出す方法を「世界共和国」への道すじの中に探ってゆく。二一世紀の世界を変える大胆な社会構想。

感想

  • 世界史をさまざまな観点(政治、経済、文化、etc...)で学んでいく際に出てくる疑問に対して、包括的に答えてくれる一つの理論体系を提供してくれているように感じた。
    • しかし、そもそも前提として世界史の基礎知識が足りていないせいで、感動が薄くなっているように感じた。
    • また、知識不足なせいで本を読んでいるときに解像度が低くてモヤモヤした。例えば「帝国」と書かれた時に具体例と周辺知識がバッと脳内に展開されてほしい。
  • 受験レベルの世界史をある程度しっかり勉強して、色々と本を読んで、その上でこの本を読み直したい。その後、『世界史の構造』を読みたい。

ピックアップメモ

  • p48

生産物交換が共同体と共同体の間に始まるのと同様に、国家は共同体と共同体の間に発生するのです。
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そこではむしろ、交換がなされる前に、略奪がなされる可能性がある。交換は、むしろ暴力的略奪が断念されたときに生じるというべきです。共同体間の生産物交換は、一つの共同体が他の諸共同体を支配し、それ以外の暴力を禁じること、いいかえれば、国家と法が成立することによって可能になります。

国家というものをその内部のみで完結するものとして見るべきではない、ということが繰り返し言われている。国家は他の国家との関係性の中で成り立つ概念である。

  • p121

一方、国家の自立性は、それが他の国家に対して存在するという位相においてのみ見出されるのです。その意味で、国家の自立性を端的に示すのは、軍・官僚機構という「実体」です。
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ヘーゲルによれば、議会の使命とは、市民社会の合意を得るとともに、市民社会を政治的に陶冶し、人々の国政への知識と尊重を強化することにあります。いいかえれば、議会は、人々の意見によって国家の政策を決めていく場ではなく、官吏たちによる判断を人々に知らせ、まるで彼ら自身が決めたことであるかのように思わせることにあるのです。
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議会制民主主義が発達したはずの今日の先進国において、官僚制の支配はますます強まっています。ただ、そのように見えないようになっているのです。議会制民主主義とは、実質的に、官僚あるいはそれに類する者たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思いこむようにする、手の込んだ手続きです。

なるほど、このように捉えかつそれをポジティブに受け止めることで、個人的には政治的アパシーを克服できそう。

p125

たとえば、革命は旧来の国家機構を廃棄するように見えます。しかし、それはただちに外からの軍事的干渉を招くので、革命の防衛のために旧来の軍・官僚機構に依存するほかありません。かくして、旧来の国家機構が保存され、再強化されるようになる。国家をその内部だけから見る考えでは、国家を揚棄するどころか、むしろ、国家を強化することにしかならないのです。

p137

イギリスで産業資本主義が最初に発展したのは、生産手段をもたず労働力を得るほかないプロレタリアがいたからだといってもよいのですが、それは、たんに貧民がいたということではない。大切なのは、このプロレタリアとは、労働力を売って得た賃金で生産物を買う消費者だということです。産業資本が商人資本と決定的に異なるのは、この点です。商人資本は主として奢侈品を扱いました。それを買うのは王や封建諸侯です。
一方、産業資本の生産物は生活必需品であり、それを買うのは生産したプロレタリア自身です。もちろん、労働者は自分が作ったものを買うのではない。しかし、総体としてみれば、労働者は彼ら自身が作ったものを買い戻すといっていいのです。労働者の消費=労働力の再生産は、資本の増殖過程の一環としてあるわけです。

p139

純化していえば、商人資本が外国(遠隔地)に向かっていたのに対して、産業資本は国内に遠隔地を見つけた。そして、それがまさに生産=消費するプロレタリアであったということです。

p151

産業資本は、本当は商品にはならない二つのものが商品になった時に成立した。すなわち、労働力と土地です。これらは資本が自ら作り得ないものです。
たとえば、資本は労働力商品を作ることはできない。他の商品と違って、需要がなければ廃棄するということはできない。不足したからといって増産することもできない。また、移民で補充しても、後で不要になっても追い出すことはできない。産業資本は労働力商品にもとづくことで、商人資本のような空間的限界を超えたが、まさにこの商品こそ資本の限界として、内在的な危機をもたらすのです。実際、資本にとって思い通りにならない労働力の過剰や不足が、景気循環を不可避なものとするわけです。
だが、商品にならないものの商品化は、資本にとって内在的な障害であるだけではない。それは、人間を含む自然にとっても破壊的なものです。まず人間から言えば、労働力商品としての人間は、家族、共同体、民族などから切断されます。すなわち、互酬的関係をうしなう。人々はそれをナショナリズムや宗教という形でとりかえそうとするでしょうが、それはそれで別の災禍をもたらす。おそらく、商品交換の原理に対してぎりぎりまで抵抗するのは、家族でしょう。しかし、最近では家族の互酬原理さえも解体されつつあります。
つぎに、資本の限界は、それが自然を商品化したことにあります。生産はつねに、同時に廃棄物の生産です。資本性生産は、それ以前の段階では可能であった再生産エコシステムを破壊してしまう。特に、石油にもとづく産業のグローバルの拡大は、自然を再生できないほどに破壊してしまう。つまり、環境汚染や温暖化が致命的な結果をもたらすことは明白です。ところが、資本はその運動を止めることはできない。自己増殖的でないかぎり、資本は資本でなくなるからです。

家族ですらも互酬的原理から商品交換の原理になりつつある。
これはたとえば、「自分と妻はお互いにいくら資産を持っているか知らない。お互いに出すべきものを決めて、あとは自由にやっている。お互いに自立できる状態を維持した上で関係を築きたい」というような夫婦関係の人と出会ったことがあるので、納得感がある。


p154

産業資本を、生産点における搾取という観点でみるならば、その本質をほとんど理解できないでしょう。
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資本制の発展とともに、資本と経営の分離がおこります。資本家はたんなる株主として生産点から離れ、他方、経営においては、一般に官僚制が採用される。経営者と労働者の関係はもはや身分的階級ではなく、官僚的な位階制になる。
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こうして、生産点でみるかぎり、「資本」と「賃労働」の関係はもはや主人と奴隷の関係ではない。個別企業では、経営者と労働者の利害は一致します。だから、生産点においては、労働者は経営者と同じ意識を持ち、特殊な利害意識から抜け出ることは難しいのです。
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生産過程においては、労働者は資本に従属的であるほかないのです。しかし、労働者は流通過程において、消費者としてあらわれます。そのとき彼らは資本に優越する立場に立つわけです。

  • p158

西ヨーロッパにおいて、このような「帝国」の分解が明瞭になるのは、絶対主義国家の成立においてです。
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たとえば、農奴賦役や年貢を金納するようになる場合、領主-農奴という封建的関係は、地主-小作人という関係に変形されます。貨幣経済の浸透は、このように実質的に封建的(経済外的)強制を無化します。他方、そのような封建諸侯を制圧した王は、領主たちが得てきた封建地代を独占し、それを国家への租税に変換します。このような主権国家が各地にできてきたとき、西ヨーロッパの世界帝国は解体されたといっていいわけです。

  • p160

もちろん、絶対主義国家の段階はまだネーション=ステイトではありません。ネーション=ステイトが生まれるのは、市民革命によって、こうした絶対的主権者が倒され、人民主権が成立する段階です。しかし、ネーションの基盤が作られるのは、絶対主義王権の時代なのです。
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人民はまさに絶対的王権者の臣下として形成されたのです。つまり、それまでさまざまな身分や集団に属していた人たちが、主権者の下で臣下として同一の地位に置かれた時に、初めて人民となった。国民は、まず臣民として形成されたのです。このような臣下としての同一性は、他方で、封建制において存在したさまざまな共同体が解体されることによって生じます。

  • p161

一般的にいって、それまで身分・部族・共同体・言語によって分かれていた人々が、その差異をこえた同一性を持つのは、絶対的な主権者の臣下になる時です。それはたとえば、明治日本のケース - 徳川の幕藩体制を廃棄して、天皇の下にすべての者を臣下とすることによって、国民を作り出した - に当てはまります。


p166

ネーションが商品経済とは違ったタイプの交換、すなわち互酬的交換に根ざすということを意味するのです。ネーションとは、商品交換の経済によって解体されていった共同体の「想像的」な回復に他なりません。

ナショナリズムは、商品交換の経済によって失われた共同体時代の互酬的交換の回復!

  • p175

ネーションにおいては、支配の装置である国家とは異なる、互酬的な共同体が想像されています。こうして、ネーションは国家と資本主義経済という異なる交換原理に立つものを想像的に綜合するわけです。私は最初に、いわゆるネーション=ステイトとは、資本=ネーション=国家であるとのべました。それは、いわば、市民社会=市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれているということです。これらはいわば、ボロメオの環をなします。つまり、どれか一つを取ると、壊れてしまうような環です。

p222

彼(カント)の理念は窮極的に、各国が主権を放棄することによって形成される世界共和国にあります。それ以外に、国家間の自然状態(敵対状態)が解消されることはあり得ないし、従って、それ以外に国家が揚棄されることはあり得ません。一国の中だけで、国家を揚棄するということは不可能です。

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  • 柄谷行人憲法の無意識』
  • マルセス・モース『贈与論』
    • 互酬的関係についての理解を深めておきたい