学びの糸を紡ぐ

自分なりになにかを身に着けていく過程をまとめたり、記録しておきたい心情を残したり。

真木悠介『自我の起源: 愛とエゴイズムの動物社会学』を読んだ



感想

『時間の比較社会学』『気流の鳴る音』と読んできて、自分なりの思想が形成されつつあると感じていたが、この本はやはりその欠落したピースを埋めてくれたように思う。
この本が自分にとってどのような意味を持ったか、については以下。

  • 他者や自然との交響が自らの歓びになることの論理的説明を得た。
    • 『時間の比較社会学』を読んだ際、以下を強く実感した。
      • 常にコンサマトリー(自己充足的)な現在を生きていくことでニヒリズムを克服できる。未来のために生きるのではなく、未来は現在を豊穣化させる手段として用いるべきである。
      • 他者や自然との交響が最も大きな歓びを自分にもたらしてくれる、それこそがコンサマトリーな現在を生きていく上で大切にすべきことである。
    • 前者についてはまさにその本を読むことで論理的に納得して腑に落ちたが、後者については直感的には納得したが、それはあくまで自分の経験のみから感じられるものであった。
    • 『自我の起源』を読み、「この世界に生命を持つものの一員としての自分」というレイヤーから捉えることで、それが確信に変わった。
    • 特に「7章 誘惑の磁場」「テレオノミーの開放系 ―― 個の自己裂開的な構造」の文章が素晴らしく、胸を打つ。
  • 『気流の鳴る音』における「翼を持つことと根を持つこと」のうちの「根を持つこと」の方の自分なりのやり方の展望が開けた。
    • 個体というあり方が相対化されることで、自分のより原的な存在基盤を発見できた。また、自分のあり方が相対化されるということはすなわち、自分以外の生命(同じ人間もそうだし、その他動植物もそう)の存在も対等な位置に置いて見ることが出来るということであり、そういう意味でも自分がこの世界に対してより開かれたような感覚を得ることができた。

その他、思ったことを箇条書きで。

  • この本を読み、生命を持つものとしての自分、動物としての自分、ヒトとしての自分というレイヤーから救われるという体験をした。アイデンティティは重層的なものであるのだから、それぞれのレイヤーにおける物事に対するスタンスというものが整理されており、かつそれが調和している状態になることが望ましいな、と感じた。
  • 見田さんの書籍を読んでいく中で、自分が問題意識を持っていた多くの事柄がきれいに整理され、自分の思想に取り込まれた(鵜呑みにせず咀嚼して自分のものとしなければならないのだが、あまりにも見田さんの言説が強力すぎて、取り込まれてしまいそうになるほどだ)。ただし、自分の中にひとつ残っている疑問がある。自分は他者・自然との交響から歓びを享受するが、それだけでなく問題に向き合う気持ちよさのようなものも生きる上で無視できないものとして捉えている・・・気がする(例えば哲学や数学、あるいはそもそも見田さんがこのような著作を残す上での取り組みもそうだとおもう)。この極めて人間的な歓びはどのような形で捉えることが可能だろうか?という点はまだ解決されていないなと感じる。見田さんが描いた絵のなかにこのあたりへの言及は見られなそうなので、自分なりに見つけていく必要がありそうだ。
  • 大澤真幸さんの書いた解説がとてもわかりやすい。読み返す時に大いに参考になった。
  • もともと強い問題意識を持っていた領域の話ではなかったので、最初に一周読んだ時点では★4かなーという気がしていたが、読み直しつつメモを残していると、改めてとてつもなく広大な視点で語られており(翼を持つこと!)、ググッと引き込まれてしまった。
  • 下のピックアップメモにも引用しているが、「7章 誘惑の磁場」「テレオノミーの開放系 ―― 個の自己裂開的な構造」は本当に文章が素晴らしすぎて、読んでいて気持ちが良い。気持ちが良いというか、その優しさ?大いなるもの感?にやられて泣きそうになった。ついつい読み返してしまう。
  • ドーキンスの本を一冊一応読んでいたのもあり、読みやすかった。全く知らないと読みづらいのかもしれない。延長された表現型とか、いきなりでてきてもしっくりこないかもしれない。

longtime1116.hatenablog.com


ピックアップメモ(引用と、たまにそれに対するコメント)

  • 1章

p17, 18
ハミルトンは更にこの結果を一般化して、動物個体の「利他」行動の進化の条件として
br > c したがって r > c/b
という式を導いている。r は個体間の血縁度で 1 から 0 までの値を取る。c は行為者の犠牲(cost)の大きさ。b は受益者の受ける利益(benefit)の大きさである。
・・・
ダーウィン以来の進化論の「目的関数」、つまり進化の方向を規定するものは、個体の「適応度」とされ、この「適応度」は先にみたように、ある個体の「繁殖成功度」、つまりその個体の残す子孫の数の期待値によって定義されてきた。しかしこの考え方ではアリやミツバチの「利他」行動は説明できない。ハミルトンはこの「目的関数」自体をおきかえて(正確にはより一般化して、)「包括適応度」を定義した。

p20
動物たちの「利己的/利他的」な行動や資質や関係をめぐる、時に互いに相矛盾するようにさえみえる多様な在り方は、動物の個体自体の「幸福」や「生存」や「繁殖」という観点からは統一して理解することができず、遺伝子の自己複製という水準から把えかえした時にはじめて、統一的に理解されうるということである。たとえばミツバチのワーカーは遺伝子の1/2しか共有しない自分自身の子を産むよりも、遺伝子の3/4を共有する妹たちを育てた方が、より多くの自己遺伝子を再生産する。
・・・このような統一理論を徹底させると、動物たちの行動や資質や関係を究極に支配している動因は遺伝子たちであり、個体は遺伝子が生存し増殖するための<生存機械>にすぎないという見方となる。このように社会生物学の論理を徹底した形態が、ドーキンスの<利己的な遺伝子>理論である。

  • 2章

p28
ドーキンスの所説の基本的な誤りと考えられるのは、次の2点である。
第1にドーキンスが遺伝子レベルの「利己性」と、個体レベルの「利己性」を混同していること。
第2にドーキンスが、上位システムの創発的 emergent な自律化と、それによるシステムのテレオノミー的な重層化(後述)を理論化していないことである。
・・・
第2の論点は5章で論じる。

p31
つまり遺伝子の「自己複製」という論理は、個体水準の「利己性」を発現することもあるし、「利他性」を発言することもある。
・・・
個体の「利他性」の可能性をこそ立証しているはずである。

p32
「利己/利他」の定義に準拠するユニットをもし(常識の言語がいうように)個体にとるなら、α(親の子に対する自己犠牲等)も利他行動というべきである(子供は他個体である!)。
そうでなく、「利己/利他」の定義に準拠するユニットを遺伝子にとるのなら、β(親や姉妹等に対する自己犠牲)も、[ハミルトンの条件下でありうるのだから]もともと「利他」というべきでなく、(遺伝子の)「利己的」な行動に過ぎない。

p37
・・・この「利他性」は、遺伝子の「利己性」によって方向を決定され限定されている。それでもそれは、個体の身体がその存在の芯の部分に、その個体自体の利害を超え出てしまう力を装置されているということを意味する。
・・・
ホモ・サピエンスの内に典型のみられるような「エゴイスト」こそがまさしく、この光栄ある反逆者である。
・・・
もちろん人間の主体性は、エゴイズムとは反対の方向に、つまり遺伝子が方向づけている限定された利他性ではなく、純粋の他者や他種の個体にさえ向けられた愛という方向に超越することも出来る。
それは二重の超越である。つまり第1に、その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの「個体」の自立化であり、第2にこの「個体」水準の自己絶対化からの自己超越である。

  • 3章

p42
われわれの身体を構成している遺伝子の約90%は、このような「無益な」遺伝子であるという。つまり個体のどんな形質をも「遺伝しない遺伝子」という形容矛盾の、しかも自己複製力を持つ存在が、特殊なものでなく、一般的なものであることが明らかになってきている。
ウィルスは逆に、他の生物個体の細胞という遺伝子コロニーから離脱した遺伝子たちという可能性が大きいという。つまり特定の「個体」という共同体の内に定住することをやめた自由の民である。
・・・
この星の上で2つの生命形態のどちらが「優勢」であるかを判定することは、専門家にもむつかしいだろう。それは生命の2つの対等の存在様式である。

p44
「遺伝子」とは gene に対して、個体中心主義的なドグマから翻訳された日本語である。
・・・現在の視点に立つなら、それはこの語の直訳である「生成子」とでもよぶべきものである。
この生成子の内の一部は、真核細胞=>多細胞「個体」の生成された後にはこの個体の内に集住し、そのある部分はやがてこの共同体の外部では自立して生活する力を失う。またこの定住民の内の一部は、個体の何かの形態や行動性向を代々の個体にくりかえし再現せしめる制御力をもつ。つまり「遺伝子」として機能する。90人の乗客に対する10人の乗務員の如きものである。

p51
「個体」というもうひとつの生命の定住の形、われわれ自身でもある存在の形の起源という問題が、生成子という一層原的なかつ普遍的な生命の形の視座から、改めて自明でない問題として提起される。

  • 4章

p69
インフルエンザ・ウィルスの「新型」にみるように、(もう少し大きい細菌たちでも、)微生物は遺伝子の組み換えによる「進化」をたえずおこなっている。われわれのような多細胞「個体」では、個々の細胞が勝手に自己変革をとげないようにシステムが抑制している。
・・・
この不自由の代償として性という革命がある。性が命を革める。生成子たちの関係のかたちを変える。
・・・
われわれの個体の「自己」のアイデンティティは、生成子の交歓を生殖の時だけに限定することをとおして成立する。つまり生成子の永生にとって必要な環境更新を、「わたし」の生きる限りの時間の境界の外に排除することをとおして存立している。
・・・
死すべきものであるということは、生きているものであるということの宿命ではない。個であることの宿命である。とりわけ、性的な個であることの宿命である。

p73
われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な一歩は、みずから招いた地球環境の危機に対処する原子の微生物たちの共生連合であり、つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての<真核細胞>の形成である。この<真核細胞>が、相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の、複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集積体となる。個体という共生系の形成ののちも、その進化的時間の中で、それは数しれぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し、多様化し豊穣化しつづけてきた。「私」という減少は、これら一切の不可視の生成子たちの相乗また相剋する力の複合体である。
・・・
この数千年来、とりわけ最近の数百年の間、われわれの「自我」の絶対性という傲慢な不幸な美しい幻想を自分自身の上に折り返して増殖させることとなるこの身体的個という位相は、われわれの実体であるこの重層し連環する共生系のひとつの中間的な有期の集住層である。

  • 5章

p83 エージェント的な主体性とテレオノミー
個体は最初から、たとえば真核単細胞的な時代から、生成子の機械や道具や装置や操り人形というよりも、「エージェント」に近い。
・・・
われわれが問題としたい主体性をこの「弱い主体性」から区別するために、ドーキンス自身の言い方を転用するなら、「テレオノミー的」な主体性という概念を定めておく必要がある。テレオノミーとは、「何のために」という問いに対する答えである。
・・・
われわれが主題としたいのは、個体がまさしくこの<テレオノミー的な>主体性を生成子から「奪い」、個体自体のものとして確立することがあるかという問いである。[例えば軍隊の前線司令官はいちいち統合幕僚本部の指示を仰ぐことなく、臨機応変に判断し対処する能力を求められる。つまりエージェント的な主体性を高度にもつことを要求される。しかしそれはすべて、その「戦争目的」に資する限りであって、この「戦争目的」自体を批判したり変更することは許されない。つまりテレオノミー的な主体性は禁止されている。等々。]

p85
ダーウィン自身の考えた雌雄淘汰論を集団遺伝学的に洗練したフィッシャー(1929)の「ランナウェイ理論」というものである。
孔雀の・・・少しでも長い尾をもつオスほど多くのメスとつがえることになり、長い尾は群中にますます増加する、というポジティブ・フィードバックが形成される。いったん尾が長くなり始めると止まらない、という意味でそれは「進化の暴走」run-away理論と言われる。

p97
こうして哺乳類という独自の分岐は、いつか人類というそのひとつの先端部分が、生成子の支配という圏域自体をほとんど走り去って(runaway!)しまうかにみえる強固な個我の主体性を確立するまでに至る、加速度の助走を開始しているといえる。それが進化の「暴走」であるかは分からない。

p97
哺乳類という生命の分岐の特質が、<自我>のこのようなテレオノミー的な主体化に至る進化を走り抜いてきたことの条件をもういちどふりかえってみると、それはスリリングな逆説を含んでいることが分かる。第1に哺乳、第2に保育期間の延長、第3に学習能力とシミュレーション能力、第4に群居と社会性。これら「個体」の、生成師のメディアであることからの自立と、<主体化>を生み出してきた条件は、個体の自己中心化への力であると同時に、また個体の脱自己中心化への力でもある。このことは<自我>という減少の原的な<脱自我性>ともいうべきものを根拠づけているように思われる。<主体>がテレオノミーとして選択することのできる2つの方向、求心化と遠心化とは、テレオノミー的な主体性の獲得の根拠それ自体によって、原的に同時に与えられているからである。

  • 6章

p121
残された重要主題は、ヒトという種が、たんに社会的動物一般ではなく、<かけがえのない個>という感覚を存立せしめるような、ローレンツのいう強意の「個体識別的な」性格の社会的動物であったということである。

p126
個体の固有性への相互関心と識別能力が、折り返して自己自身のアイデンティティの個有性という感覚の前提となると考えていいはずである。つまり<自己意識>は一般に、他の個体との社会的な関係において反射的に形成されるが、その文脈となる社会関係が、このように「個体識別的」である時にはじめて、それはわれわれにみるような、かけがえのないものとしての<自我>の感覚を形成するものとなるだろう。

  • 7章

「赤子の手をねじる」という日本のことわざは、やろうと思えばできるはずなのに「どういうわけか」人間にはそれができない、ということである。この現象をドーキンス風にシニカルに表現するなら、幼児が何らかの視覚的、聴覚的、n覚的刺激を使って「利己的に」われわれ大人を「操作」しているのだということもできる。
・・・
それは理論として反論できない。けれども(再び)そうであるとして、それが私たちにあの至上の歓びを感じさせてくれるものなら、強いて拒否する必要はないはずである。

p139
生成子が自分のサライである個体だけでなく、他の個体を含めた世界の全体に働きかけあっている、という認識が、「延長された表現型」という卓抜な発想の理論的核心である。生成子が他の個体に働きかける最も優れた方法は、働きかけられる他個体が歓びをもって、すなわち能動的な「熱意」をもって、利他行為を行ってくれるように形成することであった。

p140
わたしたちは他の個体からも、時には異種の生成子たち、動物や植物からさえ、いつも働きかけられている。それらと共にあることに歓びを感じ、時にはそれらのためにさえ行動することに歓びを感ずるように作られてしまってあるなら、そのように感受する力をもった身体として作られてあるということを、豊穣に享受すればよいだけである。

p143
もちろんフェロモンは、個体間の感覚通信路の一つにすぎない。ウィルソンの包括的なリストによれば、化学信号(フェロモン)、音信号(聴覚通信)、光信号(視覚通信)が最も一般的なものであり、他に触覚、表面波[アメンボは求愛行動までパターン化した表面波の伝播によって行う]、電気刺激[電気魚等]等がある。主要な3つの感覚チャンネルの相対的な重要度を、ウィルソンは種別に図示している。昆虫でもアリは化学的、チョウは視覚的、コオロギは聴覚的である、等々。
・・・
ウィルソンがヒトを(アザラシに次いで)「聴覚的」動物の極に定位したのは・・・言語信号の力を重視したからだろう。自己意識の章でみてきたようにわれわれは言語をとおしてせめぎ合う他者たちの声を、「自己」として意識している。

気流の鳴る音で、視覚に頼りすぎるなというドン・ファンによる教えが出てくるが、こことつながっていそう。ヒトが同じヒトやその他の動植物と歓びをもって作用しあうその仕方は、視覚によらない。本書で聴覚が優位となっているのは言語信号の力を重視したからだが、ドン・ファンは言語ではなく自然を感じるために耳をそばだてる。

p145
クジャクやゴクラクチョウにとって美であるような彩色が、人間にとっても「美しい」と感じられることは、ほんとうにおどろくべきことである。
・・・
昆虫を誘惑する花の色彩や匂いの「美しさ」=これら節足動物ホモ・サピエンスとの美意識の符号という神秘もそうだ。

p145
同種個体間の関係物質フェロモンに対して、異種間の関係化学物質をブラウンとアイスナーはアロモンと名付け、このうち、発信者にとって適応的なものをアロモン、受信者にとって適応的なものをカイロモンとした。ただしウィルソンは両者の区別は「困難であり、不可能なことも多い。」としてアロモンの呼称に統一することを提案している。

p146
アロモンやカイロモンは現在のところ、ごく密接に適応し合っているいくつかの種間で確認されているだけだけれども、次第に一般的な現象として認知される可能性は大きいと思う。森林浴の「大気のビタミン」、発散されるテルペン類等の中には、治癒、強壮、生長、敏活化等々の作用が実験的に検出されている。
・・・
原生動物は、ある世代で出会った他者を共生体として次々と後世に伝え、形質を組み替えながら主として進化してきたという。「個体」の自己閉鎖の高度化した高等動物は、アロモン、カイロモン的な種間関係物質を介して間接に共生系をつくる。「個体」の自己閉鎖の一層高度化した動物は、視覚的、聴覚的な信号を介して共生系をつくる。

まさに『気流の鳴る音』で語られている「根を持つこと」だ、と感じた。
個我を自明のものとしないこと、出発点としないこと。個体は共生系に不可避に位置づけられており、その個体の内部すらも真核生物による共生系なのである。

p147
同種個体間、異種個体間の関係の諸形態をみてきたように、個体が個体にはたらきかける仕方の究極は誘惑である。他者に歓びを与えることである。われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の彩色、森の喧噪に包囲されていることであれ、いつも他者から<作用されてあること>の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
・・・
森や草原やコミューンや都市の空間でわれわれの身体が体験しているあの形状することのできない泡立ちは、同種や異種のフェロモンやアロモンやカイロモンたち、視覚的、聴覚的なその等価物たちの力にさらされてあることの恍惚、他なるものたちの力の磁場に作用され、呼びかけられ、誘惑され、浸透されてあることの戦慄の如きものである。

家の近くの川沿いの土手を歩くときのあの歓び、子供をあやすときのあの歓び、妻に対するあの愛情、そういったこの上ない幸福が、統一的な視点で捉えられるようになったのはとても大きい。個体を持つ存在に備わる原的な歓びであるという裏付けが、この感情を一層確かなものとしてくれるように思う。



  • テレオノミーの開放系 ―― 個の自己裂開的な構造

p154
個体を主体としてみれば、個体はその<起源>のゆえに、自己の欲望の核心部分に自己を裂開してしまう力を装置されている。個体にとって、性はなくてもいいはずのものだ。個体の長寿にも安らぎにも幸福にとってもない方がいいものである。それでも個体は不可解な力に動かされるように性を求める。この不幸を求める。この不可解な力は個体自身のいちばん核心からくる。個体は自分自身の中核によって自己を解体される。
・・・
けれど個体の、この自己裂開的な構造こそは、個体を自由にする力である。個体のテレオノミー的な主体化が、自己=目的化、エゴイズムという貧相な凝固に固着してしまうことがないのは、個体のこの自己裂開的な構造のためである。個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。
・・・
個体はじぶんの身体の中心部分に自己を超越する力を装置してしまっている故に、この超越する力をもまた自己自身を目的化してしまう力も、共に相対化することができる。つまり自由であることができる。
・・・
どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定しないし、どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定することができる。この無根拠と非決定とテレオノミーの開放性とが、われわれが個として自由であることの形式と内容を共に決定している。

なんという包容力だ・・・という気持ちになった。
人間は自己を目的化してしまうエゴイズムに固着してしまったり、固着してしまっている自分に嫌気がさしつつもそれを乗り越える術をもたず苦しんだりする。具体レベルの問題で向き合って悩んでもなかなか救いは得られないが、それは人間の性を中核に置く自己裂開的な構造から不可避なものとして発生するのだという形で捉えることができれば、一気に視界が開け、希望が生まれるだろう。

  • 補論2 性現象と宗教現象 ―― 自我の地平線

p197
人があるひとつの思想に決定的に魅かれ、とらえられてしまう契機は二つあるように思う。ひとつは自分を、その内奥から深く制約していた<固有の敵>のようなものから、解き放ってくれる思想と出会ったときだ。もうひとつは、自分の身体にはじめから固有していて、未だ明確な形を見出していなかったような資質的直感のごときものに、明確な言葉を与えてくれる思想に出会ったときだ。

とても良くわかる。自分はまさにこれらの形で見田宗介さんに決定的に魅かれた。
前者と後者の違いはその<固有の敵>の正体と対処の仕方に対してどの程度手がかりを得ているかの違いによる気がする。苦しんでいるがほとんど何も対処できていない状態で苦しんでいるというときには前者のような形で救われるが、ある程度解決の方向性のようなものが見えていると後者のような形を取るのではないか。



to where?

  • その他見田さんの本。