学びの糸を紡ぐ

自分なりになにかを身に着けていく過程をまとめたり、記録しておきたい心情を残したり。

カミュ『異邦人』を読んだ


感想

  • とても良かった。主人公がとても魅力的だし、文体も好みなので、グングン読み進めてしまった。
  • 死/生に対する向き合い方の主人公のスタンスが興味深く、自分が死に向き合うに当たり大いに参考になりそう。もう一度読む日がかならず来ると思う。最後の司祭との対話のクライマックスが素晴らしい!

引用とそれに対するコメント

p38
マリイは、あなたは私を愛しているかと尋ねた。それは何の意味もないことだが、おそらく愛していないと思われる――と私は答えた

p45
夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているか、ときいてきた。前に一ぺんいったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。

上記二つ、こんなに短い間に二回も愛(我々が愛と呼ぶもの)についての主人公の言及が出てくる。一般的な解釈では主人公はマリイに対して少なくとも愛っぽい感情を抱いているように見えるものだが、主人公はそこに安易に愛というラベルを貼らない。
もちろん、感情がないとか無感動だったりするわけではないし、マリイとの時間を楽しんでいるし好意を持っていることは読んでいて明らか。

p79
留置されて最初のうち、それでも、一番つらかったことは、私が自由人の考え方をしていたことだった。例えば、浜へ出て、海へと降りてゆきたいという欲望に捕らえられた。足もとの草に寄せてくる磯波のひびき、からだを水にひたす感触、水のなかでの解放感――こうしたものを思い浮かべると、急に、この監獄の壁がどれほどせせこましいかを、感じた。

ここに限らず、太陽や海を感受している描写が非常に多く出てきて、それがとても印象的で、自分も思わず海の近くで過ごしたくなる。
自然との交歓による生の充実が感じられて良い。真木悠介『自我の起源』に通ずるところがある。
真木悠介『自我の起源: 愛とエゴイズムの動物社会学』を読んだ - 学びの糸を紡ぐ

p84
ある日、看守が来て、私がここへ来てからもう五ヶ月になるといったときにも、その言葉は信じたが、よく理解できなかった。私にとっては、絶え間なく、同じ日が独房のなかへ打ちよせて来、同じ努力を続けていたに過ぎない。

時間の概念は時代や環境、状況によって大きく異なる。
真木悠介『時間の比較社会学』には、富の蓄積という概念を持たない農耕民族にとって未来の範疇はせいぜい1年だった、みたいな話が出てきたが、それではここでは1日にまでなっている。
真木悠介『時間の比較社会学』を読んだ - 学びの糸を紡ぐ

ここで主人公にとって未来など意味を持たないため、五ヶ月先も十年先も明日も変わらないのだろう。

p104
私はいつでもこれから来たるべきものに、たとえば今日とか明日とかに、心を奪われていたのだ。

この主人公の根本の考え方ゆえ、最後の救済があるように思う。

p121
「それではあなたは何の希望ももたず、完全に死んでゆくと考えながら、生きているのですか?」と彼は尋ねたが、その声もまた震えなかった。「そうです」と私は答えた。
すると司祭はうなだれて、また腰をおろした。あなたを気の毒に思う、といった。

このあたりの司祭とのやり取りは圧巻。作者が強い思いを込めて書いているのがわかる。
司祭の押し付けがましさにこちらも同じようにうんざりしてしまう。

p127
私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。

このあたりのクライマックスの救われ方について。我々は死という特権を与えられた存在である。死という概念があるからこそ生という概念がある。自分はいまこのときを生きており、まさにいま生きていることが重要なのだ。という感じだろうか。
そしてそれはすなわち全ての人間の現在の生が同様にかけがえのないものであることを意味する。全ての人が今の自分の生を享受しているこの世界が素晴らしい。この世界で自分(主人公)の死に関心をもたずそれぞれの人が自らの生に向き合っている素晴らしさを、「優しい無関心」と表現したのだろうか。
未来の生を無理に引き延ばそうとして貴重ないまを台無しにしてしまうことこそは本末転倒であるから、他人が決めた死刑ではあるものの、もはや反発するのに無駄に時間を使うのはよそう、となったのだろうか。

from where?

  • この本で言及があり興味を持った。

longtime1116.hatenablog.com



to where?

  • 本書がとても読みやすく引き込まれたので、『ペスト』等も読んでみたい。